新リア王


新リア王 上新リア王 下



何という小説か。
暗く重く冷たくそして息がつまりそうな湿気。
高村薫の小説は湿度が高い。
登場人物の息づかいすら聞こえてきそうな密度の濃い描写が、
この作家の持ち味だが、
青森の冬の暗く重く低い空気の鬱陶しさが
首筋にまとわりつくような感覚すら覚えた。



金庫番である秘書を自殺で失った青森1区選出の国会議員・福澤榮
40年にわたり田中派として、田中派分裂の後は中間派として永田町の赤絨毯の上を歩き
故郷青森発展のために、東京と青森を往復し続ける。
新幹線延伸や公共事業の金のために、核燃料リサイクルなどの原発
発生するゴミやプルトニウムを引き受けるが
それは、貧しい青森を豊かな土地にかえるための苦渋の選択だった。
国からの補助金公共投資がなければ青森には
過疎が進み、貧しさが貧しさを呼ぶ未来が待っているだけ。
しかし、受け入れても金が落ちるだけで何も変わらないという現実
70年当時、原子力という評価の定まらない技術に託す未来を語っても
選挙区の後援会員は「何はともあれ銭こくれ」と何憚ることなく要求する。
理想と現実の狭間で苦悩しながらも、榮はひたすら走り続け
1980年には、長男優が参議院議員となり、自民党県会長として確たる地位を築き
福澤王国と評され、権勢の絶頂を迎える。


1986年。
北洋漁業の乗組員をやめ剃髪し津軽の寒村で禅家となっていた彼の非嫡子・彰之と
榮は、真冬の津軽で対峙する。
永田町で歩んだ半生を語る榮に対して、
彰之は修行時の出来事や己が囚われている煩悩を訥々と語る。
それは、政界という生臭い生き方をする父に対する反発か、訓話
遠すぎる存在の父に息子が歩みを進めてる姿かー。
邂逅というには、二人の距離はあまりにも遠く、絶望的な感すらある。


むつ小川原開発の挫折、原子力船むつの実験失敗や原子力政策の見切り発車、新幹線の凍結、
二百海里操業問題、青森県知事選など70年代、80年代の日本の縮図としての青森が描かれており
現実の経済発展に置き去りにされた政治やケインズ経済の限界を明かしている。
その失敗や限界を感じながらも、政治に賭ける父・榮の生き様は、
禅定といいながら、俗事が頭を離れず、
些細な出来事に一喜一憂し、仏道が覚束ない息子・彰之の生き方にどこか重なる。
二人とも己の能力と道の限界を知りながらも、
薄ぼんやりとした不確かな未来を疑いつつも
そこから離れることのできない愚直な不器用な生き方ー
正反対といっていい性格と行動の父子の対決は、二人を流れる血の存在を否応なく感じさせる。


さてこの小説で、この作家が言いたかったことは何だろう。
地元利益誘導型の政治や官僚行政、物質消費社会における宗教の限界だろうか。
焼け野原から復興し、贅沢が贅沢でなくなった時代に仏家を志し
己が苦悩する様を告白する彰之は、現代における禅とは、仏家とは何かを問うているかのようで
凡夫が仏果を得る難しさを説いているかのようでもある。
いずれにせよ冬の青森の空のようなあるいは、あたかも彼岸から現世を眺めるかのような、
"薄ぼんやり"という主旋律がこの物語を支配し
高度経済成長からこちら側の昭和に生きた人間の懊悩を重厚に描ききっている。