悲劇の発動機「誉」


大東亜戦争直前、
航空機メーカーの中島は、
若手技師・中川良一に新エンジンの設計を委ねる。
空冷小型エンジンで高オクタン価の燃料を使い
出力二千馬力を狙った野心的な試みは
一年足らずで試作品を完成させ
上々の試験結果を収める。


「誉」と命名されたエンジンは、
陸、海軍の主要な航空機に搭載され
国家の命運を賭けた戦いへ投入された。
空冷小型エンジンで二千馬力超の性能は
欧米のメーカーのものすら凌駕していたが
しかし、実戦でその性能を発揮することは
殆どなかった。


燃料不足による低オクタン価ガソリン、
エンジンの量産を支える各メーカーの技術不足から
誉は、カタログの出力に遠く及ばず
また、故障を多発させ、
部隊の整備兵を困惑させ続けた。


元エンジンメーカー勤務の経験を持つ
前間孝則氏は、誉が何故失敗したか、
その理由を丁寧に探り
生産現場を知らない技術者の経験と知識不足、
海軍や陸軍のずさんな計画などを
指摘して、失敗すべく失敗した事実を
明らかにしている。


欧米のメーカーが時間をかけて
少数のエンジンを改良して、
大量生産、高出力化を
実現させたのに対して
多数の試作機、試作エンジンをつくって
少ない人的資源を浪費した日本。
首脳部の無策が
戦争を戦った者達の努力を
無に帰したともいえる事実に
救われない思いがした。


話は、それるが1964年から
始まったホンダのF1参戦は
惨憺たる結果に終わった。
エンジンの出力は最高でありながら
速いマシンではなかった。
それは、整備性や車体とのバランス、
マシンの操作性といった総合的な戦闘力を
無視した結果でもあり、
エンジンのパワーだけを
追い続けた当然の帰結であった。
当時のホンダに、戦時中、
戦闘機のエンジンを
扱っていた技術者がいたことを
考えれば、日本人の性(さが)を
憾みに思う。