赤狩り

実際にあったハリウッドの赤狩りを題材に
ハリウッド・テンの一人、脚本家ドナルド・トランボを
主人公に据えた山本おさむの漫画。
映画に関する小ネタが、物語の随所に
散りばめられており往年の映画ファンには
たまらない構成になっている。


「遥かなる甲子園」を読んで以来、
この作家のストーリーテーラーとしての品質に
信頼を置いて、多くの作品を読み続けているが
事実をベースしたフィクションである本作は、
凡庸な作家が模倣すらできない圧倒的な迫力で
筆致がさえわたっている。
実在の人物と出来事に真贋不明の挿話を織りまぜ、
感情を高揚させるストーリー展開の妙には
いまさらながら、うならされる。

この作品の登場人物らに共感し、感情移入できたのは
この手の作品ににありがちな構図の
弾圧された作家、イコール
左翼、共産主義、親共産主義、リベラルが
正義であるという単純な図式を
否定してる点が大きい。
そうした作品の懐の深さに気がつけば
リベラルに眉を顰めるガチガチの保守層も
作品に触れれば読んでみようという気くらいには
なるだろう。*1

作品に描かれている時代の
核兵器による優越と世界の安定を志向したアメリカを
狂っていたと糾弾することは簡単だが
世界が核兵器の恐怖と平和に狂騒しているなかで
正常であり続けることは、そうそうできることではない。

朝鮮戦争勃発前後からベトナム戦争にいたるまで
マッカシーズムの赤狩りが吹き荒れたアメリカが
国家として何を考え、何を目指していたのか、
敵か味方か、赤か否か、右か左か、中庸を認めない
二元論が席巻した時代の激しさについて
つい考えさせられてしまう作品である。

この作品は、言論、思想、信条、宗教、国家等々
さまざまな主観と価値観が交錯し
普遍的な意味を持つとされる存在に対して
様々な疑問を投げ掛けている。
とくにアメリカの国是ともいえる自由や
民主主義といった概念に対しても
その存在や意義について大きな疑問を呈している。
かといって、共産主義者社会主義国家が
絶対的な善との主張もない。

主人公のトランボ自身も、共産党の考え方や活動に
全面的に賛同を示しているわけではないし、
称賛するふうもない。
ただ過去において資本主義に絶望し
共産主義の理想に傅こうとしたことに対して
誤りと認めることを強制されることを拒み、
仲間の名前を密告することを是としない。
ただただ表現の自由を最重要とするだけの
思想的には曖昧な立場の人間として描かれている。

にもかかわらずもその知名度と思想の曖昧さゆえに
理不尽なほどの国家暴力の標的とされる。
物語からトランボが自身の良心に忠実であろうことを
汲み取ることは容易できるが、何故そうなのか、
理解に苦しむところではある。
自己保身に汲々とする生き方が目にあまる現代において
トランボの境遇に憐憫の感情を覚えるものの
周囲から不遇の扱いを受ける家族のことを思えば
彼の生き方を是とする人間は、そう多くないだろう。

作者は、頑ななまでに意地を張るトランボの対比として
製作の活動の場に居続けることを最重要と考えて
転向した同時期の映画監督エリア・カザンを登場させる。
密告者としての立場に懊悩しながらもカザンは、
その尽きることのない苦悩の果てに
「波止場」「エデンの東」等の傑作をものにする。
トランボとカザンは、本質的に同質の人間として描かれているが
生き方に対する優先順位と立場の微妙な違いが
単に監督と脚本家という立場に由来するもの以上の
格差を生み、残酷なまでの対比となって現れる様は
物語により深い奥行きを与えている。


本作はフィクションが巧みに挿入されているため
うっかりすると「こんな事実があったんだ」と
誤認識してしまうので注意を要する。
作者もそのあたりのことを懸念してか、
巻末に注釈を付して事実とフィクションの
構成について丁寧に説明している。
それらを踏まえた上で読むと
トランボのローマの休日の脚本に関わる謎解きと再構成は
作者のストーリーテラーとしての真骨頂であり、
醍醐味といえるだろう。

事実とフィクションを複雑に構成して
ち密なストーリー展開で
読者をひきつけてやまない本作だが
7巻の帯に望月衣塑子が推薦と書いてあったのには
苦笑せざるを得なかった。

話はそれるが
四文字言葉を付して呼びたくなる東京新聞の女性記者は
ウォーターゲート事件のような大仕事を夢見て、
日々内閣批判にいそしんでいるのだと
勝手に解釈している。
権力に反対することは正義で
反権力が芸術であり、ジャーナリズムであると
勘違いしている連中はいつもの時代もいるものだなと
あらためて思う。

作中のトランボの時代にも
反権力が芸術であり、虐げられれた人間の言葉は
それのみで正義が成立すると勘違いしたリベラルな人間が
登場してくるし、
その対抗側に、権力、権勢、時流、世論に
阿り、媚び、諂う人間や活計のために主義や主張を
投げ捨てる者が多数でてくる。
多くの人間が、時流に翻弄され、
道を見失い、悲喜こもごもの愛憎劇を繰り広げるのに対して、
迫害されながらも、節を曲げないトランボはどこまでも
まっすぐに突き進む。
それを愚かとするか、良心に忠実な正直者ととらえるか
意見が割れるだろう。
だが、彼の生き様を一篇の物語と解釈するならば
それもむべなるかなと思う。

*1:なんちゃって保守を標榜するtacaQがその好例といえる。