故郷の風に抱かれ、安らかに眠れ


台湾関係のニュースを追っていたら
ふと目に付いた記事があった。
台湾総統に就任した蔡英文が、
昨年11月に高雄市
台湾無名戦士の墓を訪れ
日本兵として、或いは共産党兵士として
戦い亡くなった先人を慰霊したという。



約10年ほど前に高砂義勇隊の功績を
偲んで台湾の有志が築いた碑が、
撤去の危難にさらされたときに
台湾人の方の活躍を遅れ馳せながら知ったが
自身の無知ぶりを改めて恥じる


戦争を望むものはいない。
戦争の悲劇をなくすために
様々な施策が行われているが
この地上から消滅させるに
至っていない。


戦争の悲喜こもごもの想いを
否定することなく
ただ拾い上げることだけが
我にしうる平和への行いである。
無力のかいなを
振りかざすに等しい行為ではあるが
それでも伝えずにはいられない。






「台湾兵を追想し記念する活動」に蔡英文総統が出席│荏苒(じんぜん)として歳月は頽(くず)れ

総統が「台湾兵を追想し記念する活動」に出席
公布日期 中華民國105年11月05日

蔡英文総統は今日(5日)午後総統府副秘書長姚人多及び高尾市長陳菊同伴の下、高雄の戦争と平和記念公園に行き「台湾兵を追想し記念する活動」に出席し、台湾の無名の英雄たちを偲び、また記念と反省を通してすべての台湾人に戦争世代の話を深く理解してもらうよう希望した。


総統挨拶全文は以下:


1940年から1950年代、台湾は戦争の中に巻き込まれた。多くの台湾人は選択の余地なく、自己の故郷と親しい人から離れ、最も危険で恐ろしい戦場に入っていかなければならなかった。日本時代、彼らは召集、徴兵され従軍し、太平洋戦争の中に深く入らされた。第二次世界大戦集結の後、彼らは国民政府の軍服に変わって、国共内戦に投入された。その後その中の多くの人が現地で解放軍に組み込まれた。北は韓半島、南はニューギニアまで、ある台湾兵は異郷で命を落とし再び帰らず、ある台湾兵は当地にとどまり故郷と数十年切り離された。


またある人はやっと台湾に帰ってきたが、しかし一生戦争の影を引きずっていた。先輩の詩人陳千武が書いた「埋設在南洋,我底死,我忘記帶回來」だ。意味は、表面はいきいきとした人間だがしかしずっと以前に死を経験していると言っている。これが台湾兵の克明な描写だ。しかしこの彼らの人生を変えた経歴、長いこの時代は、台湾社会の主流に理解されることはできなかった。台湾兵の話は台湾社会の中で消えた。多くの苦しみを経て帰ってきた台湾兵にとって、これは最大の悲哀だった。


半生を台湾兵として奔走した許昭栄先輩*1はこの悲哀を纏って人の世を離れ(焼身自殺)、今なお私達の心を揺さぶっている。2008年、私は民進党主席の身分で彼の告別式に参加した、2016年の今日、私は総統の身分で再びここに来た、私は許昭栄先輩に告げたい、私達は必ずあなたのためにあなたが完成できなかった仕事を完成する。


陳菊市長はずっと台湾兵の権益と歴史記憶の保存を重視してきた。私はこの数年来、彼女が高雄市政府と台湾兵のためになした一切に感謝したい。高雄は曾て台湾兵が出発する港の一つだった、現在、私達はここで彼らの帰るのを迎えたい、彼らを迎えることは私達の歴史になり、彼らを迎えることは台湾人の記憶の一部になる。政府は台湾兵の歴史の正義の追求を支持する、同時に、私達がまた覚えておかなくてはいけないのが、第二次世界大戦及び国共内戦に参加した台湾兵は、その相当多くが原住民だった。私は原住民族の移行期の正義の推進を通して、私達が民族の角度からこの歴史を認識し直す助けとなることができるよう希望する。


戦争は家族を離散させ、人生の軌道をねじ曲げ、また友であるはずの人を敵に変えた。私達の前の世代は民族を問わず、省籍を問わず、皆曾て烽火の歳月の証人になり、皆曾ておおきな時代の流れの中で奮闘し生き抜いた。私達は記念と反省を通してすべての台湾人に戦争世代の話を深く理解できるようにすることを希望する。私はある時台湾社会の集団の記憶が違う時代、違う世代、違う民族の経験を含むことができるよう期待している。人々が多元的な歴史的観点を受け入れることができる時、台湾社会が真の和解に向かうことができる。私は信じる、これこそが平和の真理だ。


その後、総統は無名戦士の碑及び許昭榮先輩に花輪を捧げ、また「高雄市台湾籍老兵ケア文化協会」理事長呉祝栄の案内で戦和館を参観した。

*1:日本軍に志願兵として参加、戦後中華民国軍に技術を必要とされ参加、後台湾独立運動に参加し何度も逮捕投獄される、カナダ亡命を経て帰国元台湾兵の権益確保のため奔走、2008年高雄市の台湾無名戦士記念碑前で焼身自殺。