決意


アスリートであれば、誰でも願うことー
それは、万全のコンディションで競技の場に望むことである。
競技によって若干の違いはあるが
負傷との戦いは、他者と優劣を争う競技とも
勝らずも劣らないものがある。


負傷したことで練習のプログラムを変更し
結果、練習不足で実力を発揮できないまま
不本意な結果に甘んじて
競技場を去った経験のないアスリートなど
いないのではないか、と個人的には思う。


自身の拙い経験を言えば、
負傷した箇所を抱えたまま
悪化する恐怖を感じながらの練習は
あまり気分のいいものではない。
しかし、他者の練習風景を眺めているだけの状況も
また苦痛でしかない。
自分の体と心とどう折り合いを付けるかー
それは競技者自身の決断や思い入れ次第で
決まるものかも知れない。


彼のとった行動はおそらく正しいものではない。
だから、賞賛することはできないが、
彼の精神が不屈であることを信じ、
次の機会には十全の態勢で出場してほしいと願う。
不屈の魂をもった競技者ー
それこそが観客がもっとも見たい対象なのだから。




【スポーツ茶論】スポーツはだれのためのものか 正木利和(3/3ページ) - 産経ニュース

【スポーツ茶論】
スポーツはだれのためのものか 正木利和
 

スポーツはだれのためのものなのか。
このごろ、よくそんなことを考えている。


フィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ中国杯で、19歳の五輪王者、羽生結弦(ANA)は、フリー演技直前の練習で中国選手と激突、大ケガを負いながらも出場し、4分半を滑りきって2位に入った。
実際、あごにはテープ、頭には包帯という痛々しい姿で登場し、ジャンプで5度も転倒するという厳しい戦いだったにもかかわらず、彼は最後まで演技をやり遂げたのである。
ケガにも負けない不屈の闘志はしばらく称賛を浴び続けた。たとえば、「感動したぞ」の見出しをつけ「永遠の伝説として語り継がれる」などと記したスポーツ紙もあったほか、ネットなどでもたたえる声は後を絶たなかった。


しかし、しばらくすると医学的な見地から疑問の声が沸き上がった。脳振盪(のうしんとう)も疑われるような状況のなかで、戦うべきではなかったのではないか、というのである。
激突して倒れたあと、羽生はリンクを退いてから米国チームの医師の処置を受けた。脳振盪の兆候が見受けられないことは確認されたが、指導するブライアン・オーサーコーチは「ヒーローになるときではない」と出場しないように説得したとされる。しかし、本人は決して譲ろうとはしなかった。
それで演技が完璧だったなら、あるいは完璧に近かったなら、ヒーロー物語で終わっていたはずだったのである。ところが、羽生は何度もジャンプに失敗してしまった。
時間の経過につれ、出場したことに対する当否そのものが問題にされるようにもなった。そして、今回の羽生が下した決断が「美談として強調されることで部活動などで無理させる雰囲気になることが心配」といった声をあげるメディアも現れたのである。

 
しかし、羽生結弦という若者のアスリートとしてのこれまでを振り返ってみれば、彼自身は決して美談にしようなどと思っていなかった、ということがわかるはずである。
彼は2012年に初出場した世界選手権の直前練習のとき足首を捻挫した。けれども、かたくなにそれを隠し通したのである。
つまり、彼はどんな状況に置かれても、試合に出るというたくましい精神力を持ち合わせた人間であるということなのだ。
それが、今回は練習中の激突という事故であったために、表面化してしまったが、きっとどんなにつらい目にあっても、彼はこれからも試合を投げたりはしないのではないかと思う。


フィギュアスケートは、ボクシングやサッカー、ラグビーなどのように審判が選手の状況を判断して試合を止める権限を持つものとは異なって、選手の意思が極めて尊重される競技のように思う。
だからこそ、統括団体は選手のために、より平等でより美しく、そしてより安全に演じられる環境をつくる必要がある。
さまざまな意見があるだろうが、羽生という超一流のアスリートが、それでも出場すると判断し、戦う意地をみせたとき、医師以外に止める権限を持った者はいなかったのではないかと思うのである。


そう、簡単なことだ。スポーツは戦う者のためにあるのだから。