罪と罰


約1年前、大阪の市立高校でバスケ部の生徒が自殺した事件では
部の指導にあたった顧問の指導がクローズアップされ
一方的に断罪される報道が続いた。


すべての体罰を十把一絡に否定する風潮に納得できず
また、教師を擁護するOB等の言葉に
自分は、この顧問の教諭に同情する余地があると考えていた。
しかし、以下の記事を読むとその考えが
謝りであったことに気づく。
己の不見識と浮薄さを恥じる。


http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131014/trl13101410000004-n1.htm

スポーツ強豪校「生徒自殺」の衝撃は現場に混乱を引き起こした。当初、体罰に理解を示す意見も見られたが、これは実態が伝わっていなかったためと思われる。


その異様さを最初に感じ取ったのは警察・検察であった。だから元教諭が事実関係を認めても、謝罪しても、懲戒免職処分を受けても、「体罰は指導との線引きが難しい」との声があっても、検察は略式起訴で済まそうとはしなかった。正式に起訴し、公開の法廷で罪の審理を求めた。


「従来基準なら略式起訴・罰金刑の事件では」と疑問視する声もあったが、9月5日の初公判でピタリとやんだ。裁判官、弁護士ら関係者に、検察が証拠提出した同校の練習試合のビデオが法廷で公開されたためである。ここには元教諭が生徒に繰り返した体罰の一部始終が記録されていた。


後ずさる生徒。迫(せま)り、平手打ちする元教諭。試合中のコートを横切りながら殴り続ける異様な姿。「パチン」と乾いた平手打ちの音がモニター越しに響く。関係者が明かした映像の内容からは、「指導」との印象は汲(く)み取れない。


記事を書いた産経新聞の井口記者は
この事件をただ教諭だけの問題として捉えるのではなく
その非を鳴らさなかった部員や同僚、
学校の管理体制等、体罰を容認した構造を
司法の場で明らかにすることを期待していたようだった。




http://sankei.jp.msn.com/life/news/130827/art13082713050002-n3.htm

しかし、取り上げるべき論点は多いのだ、と指摘しておきたい。ビデオを見た検察関係者はこう語っているのだ。


「暴行自体も執拗(しつよう)だったが、それにも増して異様だったのは、殴り続ける教諭を制止しようとする人間がひとりもいなかったことです」


桜宮高の体罰は「見て見ぬふり」をする人々が存在してきたからこそ、継続してきた。校長をはじめ、教諭たちは異様な体罰を知りながら、なぜ正常化しようとしなかったのか。体罰によって教育、スポーツ指導の効率は上がったのか。体罰を受けてきた教え子はどう受け止めているのか。保護者はどう考えていたのか。当の元教諭はどういう考えで生徒を殴り続けたのか。


被告の元教諭が起訴事実を認めているから終わり、という話ではない。検察のみが立証責任を果たすべき話でもない。弁護人、そして裁判官の三者が協力し合い、桜宮高ではびこっていた体罰の体質の何たるかを、それぞれの立場と職権で解明すべき事件なのだ。

橋下市長が教員をすべて入れ替えろ、入試の方法を変更しろと
コメントし、かえって混乱を助長する発言をしていたが
それではこの問題を解決することはにはならない。


勝利至上主義が悪いのではない、スポーツ推薦が悪いのではない、
顧問の教諭は断罪されてしかるべきだが、教諭の暴走を止められず、
容認ないしは消極的に暴力を支持した人間の見識と良心を
糺すべきではないだろうか。