望郷の歌、誰のために

誰のために―石光真清の手記 4 (中公文庫 (い16-4))望郷の歌―石光真清の手記 3  (中公文庫 (い16-3))

作者である石光真清
最近、文藝春秋社から発売された「坂の上の雲」の特集誌に
日露戦争を裏から支えた諜報員として
明石元二郎らとともに紹介されていた。
事実を明晰に叙述する文章力は、諜報員として
欠かせない資質であるとー。


スパイとして名を馳せたわけでもなく
軍人として位を極めたわけでもなく
社会的に成功した訳でもなく
無名に近い彼が名を後世に残すことができたのは
彼が好むと好まざるとにかかわらずに
人生の大半を大陸で過ごした特異な経歴と
その仔細を綴った文章によってである。



諜報員として国家に忠を尽くすため、
石光は軍籍を抜いて、
名前を変えロシア・ブラゴベシチェンスクに民間人を装い潜入し
その後、ハルビンに移り、ロシアの動向を探り
有益な情報を本国に送り続ける。


日露戦争では予備役として招集され再び軍服に身を包み
大陸での多くの戦友を失いながらも生き残る。
しかし、戦役後、軍服を脱いだ後の彼は不遇をかこつ。
慣れ親しんだ大陸で商売を始めるも失敗続き、
一時は海賊と手を結び保険会社の設立など試みるが
全ては失敗し、失意のまま故国に戻る。


東京に戻ってからは
身内の奔走で世田谷の郵便局長とおさまることとなり
なんとか安定した収入を手に入れて
穏やかな生活を送るものの
遠いロシアで起きた革命が彼の人生に影をさす
風雲急を告げる時代は、彼に安閑を許さず
再び大陸へ身を投じることを命じる。


当初、軍の援助を受けた錦州の交易会社を営みつつ
情報を集めつつ、軌道にのったところで
ブラゴベシチェンスクへ潜入。
革命前夜の不穏な空気が濃くなる中、
腰の落ち着かない本国の指令に焦燥する中
赤色革命は、ブラゴベシチェンスクを覆い
日本人は、命からがら同市を脱出する。


ロシア極東アムール一帯に赤軍の旗がたなびいたことにより
日本軍も方針を決め、シベリアに出兵し
独立国を築こうと考えるものの
進駐してきた日本軍兵士の士気と質は低かった。
保護すべきロシア人から
略奪や暴行などの蛮行を重ね、信を失い
ロシア人との友好な関係を作り上げようとしていた石光は
これに憤慨し、軍への協力をやめる。


欽州で順調に営んでいた事業も
留守中に多額の損失を出して行き詰まり
彼は大陸と日本の全てに絶望し、
再び帰国の途につくよりほかはなかった。


英雄譚でもなければ、手柄話でもなく
ただ、石光が関わった全てについて冷静な記述が続く。
胸躍るような話があるわけでなし
正直、気が滅入りそうな話ばかり並ぶ陰鬱な物語の書籍を
読み通すことができたのは
先に述べたとおり、
客観的で整斉と続く極めて理知的な叙述に
導かれたに過ぎない。
ツンドラに吹きすさぶような冷たい時代の風が
心をとらえて離さなかったのである。



心の中で、何とか作者である石光に
安息が訪れないのかと願いつつページをめくるのだが
時代の流れのなんと非情なことか。
国家も人も意気揚と世界に立ち向かった明治に比して
逼塞した空気が覆い、人々の心を縮こまらせた大正。
貴族は落魄し、庶民は革命の混乱に飲み込まれ日々の糧を失い
大スラブの栄光を地に堕としたロシアとロシア国民。


国家とは、なんぞやとご大層な命題はないにしても
国に忠義を尽くした者に、
暖かい救いの手があっても良いのではないかと、
今でも変わらぬ国家の不作為を憾みたくなる。