城下の人(石光真清の手記一)、曠野の花(石光真清の手記二)

凡衆は水に浮かぶ木の葉の様なものだ。大勢に流されて赴く所に従うが、憂国の士はそうは出来ぬ。いつかは大勢を率いるか、あるいはこれを支えていくものだ。それを忘れてはなりませぬぞ


城下の人―石光真清の手記 1 (中公文庫)
曠野の花―石光真清の手記 2 (中公文庫)
櫻井よしこ女史の紹介されたこの文句に魅了され
手にした。

満州で活躍した軍人石光真清の生涯の手記を
息子真人氏が編纂し、世に出した。


冒頭の文句は、著者が幼年時代
熊本城近くで戯れていたところ
神風連の主催者である加屋氏と出会い
郷土の英雄加藤清正公の話を聞かされた際に
加屋氏から賜った言葉である。



彼の両親は、正三の前に二人の男児を病気で失っており
正三に与える愛情は深かった。
彼の母親はジフテリアに罹病し呼吸に苦しむ幼子を
楽にさせるため、口で痰を吸うい命を救う。
父親は加藤清正公の夢を見て
霊験あらたかに病状が恢復したことにより
正三と名前を改名し、慈しみながら育てる。



父親は、良くもの道理をわきまえた人物で
明治維新によって、開化、旧弊と騒然とする世情において
大事なのは双方が力を合わせて日本を良くすることが肝要だと
子供らを教育する。
その堂に入った物言いは、
おそらくひとかどの人物であったであろうことを想像させる。


明治時代熊本は、神風連や西南戦争の争乱に巻き込まれ
顔見知りとなった将兵が討ち死にしていく様に
幼い正三は戦争の恐ろしさを体感し、成長。
真清と名を再び変え、軍人となることを父に誓い上京。


軍人となった後は、
日清戦争後、満州への脅威が露わになったロシアを探るため
身分を隠しロシアのブラゴヴェヒチェンスクに滞在する。
義和団の暴発によって、激怒したロシアは
アムール川沿岸に住む無関係の女子供を含めた清国人を
七千人虐殺する。
この情景を目の当たりにした石光はロシアの詳細な侵攻を
調べるため活動の場を満州に移し、
哈爾浜で写真屋をカムフラージュし諜報活動を行う。


不思議なことに彼は満州で働く日本人から男女を問わず慕われる。
日本人だけでなく現地の馬賊からも信頼され
一方ならぬ便宜を図ってもらうのだが
なにやら講談にも似た血湧き肉躍る冒険活劇譚でありながら
当時の世相やら満州の様子が記録され
非常な貴重な資料でもある。