300

都市国家ポリスによって国内が割拠されていた紀元前のギリシア
ペルシアの王クセルクセスから服従か死の選択をするよう使者が
スパルタの王レオニダスに訪れる。
ペルシアの無礼な口上に戦いを決意するレオニダスだが
神官の託宣は"スパルタ軍を出してならない"であった。
苦悩の末、レオニダスは軍ではなく志願兵300人を募り
ただの戦士としてペルシア軍を迎え撃つことを決意する。


決死の覚悟を決めた300の兵は、
テルモピュライで鬼神すら哭かしむる獅子奮迅の働きを見せ、
ペルシア軍100万を圧倒するものの
衆寡敵せず、徐々に追い詰められていく。
そしてレオニダスは故国スパルタへ「Remember us(我らを忘れるな)」との
メッセージを託し絶望と希望に満ちた最後の戦いへと臨む。




特に見に行くつもりはなかったのだが
超映画批評のベタ褒めのコメントに刺激され
劇場に足を運んだ。


映画に限らず歴史物を戯曲化する時、
2つのアプローチがあると個人的には思う。
硫黄島の手紙」のように衣装、風俗その他の詳細ディテールに徹底的にこだわり
物語が史実にさも忠実であるかよう振る舞い説得力を積み重ねる手法と
ラストサムライ」のように基本的な枠組みのみ取り入れて、
あとは物語が盛り上げるため可能な限り嘘ないしはフィクションを
積極的に取り込む手段を選ばないやり方である。
この映画「300」が、どちらの映画かと問われれば紛う事なき後者の映画だ。
映像的な美を追求するため衣装はおろか
史実にまで躊躇せずに手を入れている。


それにしても驚いたのが映像の美しさである。
色彩をいじって彩度を意図的に落としたフィルムは
どこか叙情的なノスタルジックさと同時に斬新さを感じた。
ちょうど80年代とかのパルコのCMで
モノクロに一色だけ使った作品群に出会った時の衝撃に近い感覚である。


映画の肝といってもいい戦闘シーンは、敵味方入り交じった乱戦でありながら
モーションを上手く加減速して"見せ"る工夫が施してあり
普通であれば、武具と目だけでお茶を濁される夜間戦闘の場面も
何が行われているかを観客にはっきりと理解させる仕掛けが
備え付けられており十二分に堪能する可能となっている。


戦闘場面で映える赤いマントをはじめとした衣装もさることながら
スパルタ軍兵士の割れた腹筋は素晴らしく
戦場を縦横無尽に駆け抜け、刀槍を振るう様は
美しい絵巻物をみているようであり
映像に対して徹底的にこだわっているのが分かる。


と、映像的には文句なしだが、
物語的にはちょっと鼻白む箇所がなかった訳ではない。
自由を守るために、民主政を守るためにとか
スパルタ人ならば言わないであろう、
アルカイーダと戦う米国兵士のような台詞を
真顔で宣うシーンがいくつか登場したのには
正直、興が殺がれた。



ただ、そうしたネガティブな部分を差し引いても
良質の映画といっていいだろう。
300人で百万人を相手に戦う男の矜恃ー
男には命を賭けても守らなればならないものがある、という
安っぽくマッチョ的ではあるが
普遍的である男の美学に心酔しているオヤジにはたまらん作品である。