硫黄島からの手紙


硫黄島二部作の第二作
前作「父親達の星条旗」同様に
日米が激突した硫黄島の戦いを描いている。
ただ違うのは日本側の視点から制作されていることである。
前作に見られた極端なまでの戦争ヒロイズムの排除は今回も同じだった。


公開前の8日にフルタチが、こんな人物を知らなかったと某番組で宣っていたが
栗林中将といえば、知る人ぞ知る旧日本陸軍の名将である。
米国への留学経験もある知米派で、
作曲もする軍人としては意外な文化的な一面を持ち
家族思いの人物として知られていた。
独自の発想で地下要塞を築き上げ
硫黄島でそれまで米軍が戦ったことのない地上対地下の戦闘に引きずり込み
多数の損害を米軍に与え、米軍の心胆を寒からしめた天才策略家である。
地上戦闘で米軍の死傷者が日本軍のそれを上回ったのは唯一硫黄島の戦いのみ。
しかし、そうしたことを連想或いは惹起させる場面は殆どでてこない。


部下を大事にする指揮官としては描かれているが、
貴重な水を無駄遣いした士官を叱り兵士から信頼を得るエピソードなどは一切ない。
これは、クリント・イーストウッドが栗林という人物を知らなかったわけでなく
軍人として称賛すべき資質を故意にカットしたからだろう。
戦闘が今さまに開始されようとするシーンにおいて、
何の気負いも、衒いもなく、狂信者のそれでもなく
日本軍の将兵が「天皇陛下万歳」と叫ぶ場面は
日本軍の何たるかを知らずして描けるわけがなく、
そうした監督が下調べにおいて見落すとは考えにくい。


要するにクリントは、軍事的な才能、指揮官として魅力溢れ中将でなく
戦争という極限状態に置かれた日本の職業軍人を描きたかったのだろう。
映画を見る限り渡辺謙扮する栗林は悩み、怒り、苦しみがらも
信念をもって戦うどこにでもいるような普通の日本人将校として映る。
その姿は、厭戦気分で満ちている徴兵された兵士西郷(二宮和也)との対比で
より鮮明になるよう位置づけられていた。
勿論、日本軍の敵となる米兵も称賛すべき勇気を示すステレオタイプな兵士ではなく
憤りを覚えるような卑怯な面も隠すことなく描いている。
つまりこの作品は、戦争という極限において、
兵士に善も悪もなく、ただ生死の二字しか存在しないことを教示しており
そうした戦場に兵士を戦場に送り込む人間らを
スクリーンに映すことなく暗に批判しているのだ。


映画の最後に栗林の銃を戦利品として拾った米兵に
厭戦的な態度をとっていた日本兵がそれに気づき逆上して挑みかかる場面があるが
それは、知らずに他国や他人の尊厳を踏みにじる行為をして
世界中から顰蹙を買う今のアメリカを暗喩したのではなかっただろうか。



日本軍に関する演出や細部も詳細に丁寧に描いており
その点では文句のつけどろこがないが、
個人的には栗林の魅力的な側面を描いて欲しかったと思う。
何故、孤立無援の南海の孤島で日本軍が勇敢で苛烈に戦い得たのか、
至るところから吹き出す硫黄、場所によつて60度を超す熱気、
一人が一日掘削できるのは15分前後という劣悪な環境であり
新鮮な野菜や肉は不足、硫黄まじりの水に体を痛めつけられ
堅い岩盤に手足のマメを潰しながらも、なお彼らは土を掘り、地下に潜り戦い続けた。
それは祖国愛に燃えただけでなく、横暴な米国に対して憤り覚えたからだけでなく
栗林という人物に触れて将兵が生死を共にしようと決意したからであり、
それを可能とならしめたのは将軍の類まれなる統率力ゆえである。


そうした側面を描くことは
"戦争に英雄はいない"というイーストウッドの信念と反するものであり
それを期待するは筋違いなのは分かっている。
ただ今の日本にここまでクールな映画の制作を期待できないだけに
そうした場面をつい欲してしまう。