日出づる国2


(2)


「おい、タカダ。ここに書いた資材をを中学校へ届けてくれ」
30分で花屋をクビになった後、私は幸運にも資材の配達会社で仕事をみつけた。
「わかった。昼前までには配達しておくよ。」
私は、オーナーがとってきた注文書をめくり内容を確認した。
給料はお世辞にもいいとは言い難いが、日に三度食べることができた。
とくにやりたいこともなかった私にはそれだけで十分だった。
配達員の仕事を始めて簡単なスペイン語を話せるようになったが
会社に初めてきた時、挨拶程度しかできない私をよく雇ったと思う。
もっとも副社長が「日本人は信用できる」と最大限の好意を示してくれなかったら
家族会社に毛の生えた程度とはいえ、その会社に雇われることはなかっただろう。
日本人であることをやめたくて、地球の裏側まできたのに
日本人であることを理由に雇われるとは、なんともいえない皮肉だった。
「人生なんてこんなものか」
と私はひとりごち、注文書どおりに資材をそろえ、中学校に向かった。



「注文の資材をもってきました」
私は、中学校の事務室に顔を出した。
「おお、ここだ。ここだ」
初老の教員らしき人物が立ち上がった。
彼は注文の内容と資材の確認を始めた。
確認が終わり、伝票にサインをもらった後、その教員が私に尋ねた。
「君のスペイン語は訛りがきついが、日系人かね」
「いえ、私は1年前に来亜した日本人です。スペイン語はまだあまりうまくありません」
「そうか、日本か」
「はい」
心なしか教員の顔が柔らかくなった。
「君はいつまでアルゼンチンにいるつもりだ」
「まだ決めてませんが、当分ここに居るつもりです」
「君はこの国が好きか」
「まだ好きかどうか答えるほどこの国のことを良く知りません」
「日本には帰らないのか」
「はい、たぶん戻ることはないと思います」
「そうか、ではもっとスペイン語を勉強した方がいいな」
「はい、しかし私には学ぶ金がありません」
その教員はかぶりをふった。
「行動起こすのは条件ではない。意志だよ、セニョール…」
「タカダです」
「タカダ、私はここで夜間も教えている。授業料はいらない。いつでもきたまえ」


(3)


私は配達からの帰り道考えていた。
この国が好きかー。来亜以来、否終戦以来そんなことは考えたことはなかった。
国を愛した結果どうなったか。人々は狂気の渦に巻き込まれ大勢死んだ。
国なんてホテルのようなものだ。気に入れば長く住めばいいし
そうでなければ、次の宿を探せばいい。
好きになる宿はあるかも知れないが、
そのために命を賭けたり、戦ったりするのは間違っている。
この国、アルゼンチンはいい所だと思う。自分のような外国人に門戸を開いている。



私は、ほどなく夜間の中学校に入学を申請した。
原則的に夜学はアルゼンチン人のためであり、日本人のしかも二十歳を越えた者は
前例がないと校長に渋い顔をしたが、粘りに粘って入学の許可をもらった。
私は、何年かぶりに中学校の生徒になって、十以上年下の同級生と授業を受けた。
教壇には、私をここに招き入れたあの初老の教員、ウーゴが立っていた。
中学校レベルの授業でもスペイン語とこの国の事情に疎い私には大変なことだったが
それでも日に日に新しい知識を吸収することは楽しかった。
自分の周りを幾重にも取り巻いていた重い鎖がほどていくのを感じた。
だが一つだけ私の心を重くのしかかってた鎖だけは外れることはなかったー
自分が日本人であるという鎖だけは、スペイン語がどんなに上達しようとも外れなかった。
そうした私の心を知ってか知らずか、ウーゴは私を名前でなく「日出づる国の学生」と呼んだ。
他の学生は全て名前で呼んでいるのにもかかわらず。



(4)


ある日、授業でいつも通りウーゴが私に呼びかけた。
「アデランテ! アルームノ デル バイスデ ソル ナシャンテ
 (日出づる国の学生よ。前に出ろ)」
私は答えた。
「私はタカダです。日本はもはや日出ずる国ではありません」
「それは、日本が戦争に負けたという意味か」
ウーゴは私に聞き返してきた。険しい顔だった。
「そうです。日本の太陽は没しました。強かった日本はもはや存在しません」
ウーゴは、射抜くように鋭い視線をまっすぐ私に向けた。
「タカダ。君は間違っている。戦争の強弱などどうでもいい。
 私は日本を日出ずる国と呼ぶのは日本が東洋の文明と西洋の文明を融合させたからだ」
「仰ってる意味がわかりません」
「日本は開国以来、西洋文明を取り入れて自分のもとし、
 瞬く間に世界の五大強国となった。東洋の文明国が西洋文明に飲み込まれることなく、
 それをを融合させるという偉業を日本以外のどの国が成し遂げたというのだ。」
私は何もいい返せなかった。
「真に世界文明を創造しうるは、異質の文明を統一する能力をもつ日本においてない。
 そうした偉業の前に、戦争の強弱などとるに足らない些事に過ぎない
 戦争に負けたからといって卑屈になる必要は毫もない。
 タカダよ。胸を張れ。君は偉大なる可能性をもった国の人間なのだ。
 何があっても、俺は日出づる国の学生なんだという誇りと精神を持て」


私の双眸から滂沱たる涙があふれてきた。私は顔くしゃくしゃにして下を向いた。
私は敗戦以来なくしていた何かを見つけた。
「日出づる処の学生よ、前に出ろ」ウーゴが再び私を呼んだ。
「……」私はあらん限りの声を振り絞ったつもりだったが、返答は音にならなかった。


(了)