南の島に雪が降る

「あれえ、いまのは雪じゃねえのか?」
「そうらしかったな。白いのが吹きこんできたもの」
そんなことをいっている。
作戦は図に当たったなーと、私はホクソ笑んだ。
(中略)
甲州街道にそった吉野の宿の街はずれは、一面の銀世界だった。もう土の色は見えなかった。厚くつもった雪が、地面の起伏をなだらかにしていた。冬枯れの黒い木々に、そして枝々にも白いものが繊細な唐草模様を描いている。カヤぶきの屋根も、重たげにうつむいていた。それでもまだ雪は小やみなく降りつづける。鉛色の空が低かった。
ーいや、もう、大変な歓声だった。
「雪だアッ!」
という異口同音の叫びが、いっせいに爆発して、そのまま、余韻がいつまでも消えないのである。
(中略)
なん日目だったか、大詰がきた。開幕を知らせるベルが鳴った。ガヤガヤと騒々しかった客席かシーンと沈んだ。
幕が上がって、とたんにワァーッときて、それが静まったら……と、ソデで待っていたのだが、もう幕はあがりきっているのに、いつものどよめきが、さっばりわきおこらないのだ。
(中略)
「おかしいですね。」
と、客席の方をのぞいたらー
みんな泣いていた。三百人近い兵隊が、一人の例外もなく、両手で顔をおおって泣いていた。肩をブルブル震わせながら、ジッと静かに泣いていた。
「今日の部隊は?」
「国武部隊ですたい。」
「どこの兵隊ですか?」
「東北の兵隊とです。」
聞いたとたん、わたしもジーンときてしまった。篠原さんもソッポをむいた。
「でましょう。やりましょうや。」
わたしはヤケみたいに篠原さんの肩をたたいた。はじかれたように森介はすごい勢いで飛び出していった。もう、ジッとしていられなかった。
篠原さんの森介を相手に、わたしは夢中でハデな立回りを演じた。いつもより激しく、気負って刀をふりまわして、ヤケクソで動きまわった。そうでもしなくては、大声で泣き出してしまいそうだった。切り、突き、払いながら、わたしの頬を熱いものが、つぎからつぎへと流れ落ちて、雪の上に落ちた。


南の島に雪が降る加東大介


小林よしのりの作品に紹介されていた本をたまたま見つけ購入した。


tacaQなりに解釈するならば、本書は役者バカ加東大介の体験記である。
巻末でノンフィクション作家の保阪正康
"地に足がついた重い反戦書"などとたわけた解説をしているが
この本は、そんな手垢のついた言葉でくくれるほど安くはない。
"日常がいつ非日常にかわるか分からない緊張感が浮かんでいる"とか
"笑いの裏側にひそんでいる苦しみや悲しみに気づいた”とか
訳知り顔で保阪某は、御託を並べているが
それは、人生の価値を知らないか、或いは見失った人間の戯れ言に過ぎない。



悲しみのない人間は幸福なのか、日常が破られた人間は不幸なのか、
おそらくそうではないだろう。
幸福のとは笑った量でもなければ、悲しみに遭遇しないことではない。
私見だが、幸せの量とはどれほど信じられるものに出会ったか、に尽きると思う。
誤解をおそれずに云うのならば、
戦争という極限の状態におかれながらも、
多くの観客に喜ばれる舞台を踏めた作者は、果報者である。
己の芸を今際の際の楽しみとして待ち望まれたことは役者冥利に尽きたであろう。
だからこそ、加東は戦友である観客の楽しみを裏切ることはできないと、
内地帰還の話を断ったり、復員の順番を自ら遅らせてまで観客といることを選んだのだ。
そうした作者の心情を理解できない人間は、環境に恵まれているかも知れないが
真の幸せを知らない者ではないだろうか。



以上、御託を並べて反戦だー、戦争の責任をー、と安全な場所で論評するよりは
南の島に雪を降らせる人生でありたい中年男の感想文である。



南の島に雪が降る (知恵の森文庫)

南の島に雪が降る (知恵の森文庫)