私は、目を閉じ透明な液体で満たした金杯に口をつけた。
刹那、私は嗚咽をこらえきれなった。
ただならぬ状態の私を見た家内は、体の加減が悪くなったのかと訝しみ訊ねた。
「違う。違うんだ。
若櫻・・・・・・。」
私は、それを云うのがせいいっぱいだった。
六十年間心の隅に溜まっていた澱が一気に吹き出てくるかのように
涙がとめどなく溢れ、流れ続けた。
そして、あの時、彼らが口々にした言葉が耳朶を打った。
目蓋の裏に六十年前の記憶の風景とそこに凛としてたたずむ荒鷲達が現れた。
名前も出生も、そしてどういう最期を迎えたか、
彼らの人生の道標たるものを何一つ知らないが
彼らのあの真っ直ぐな眼差しを、今も忘れることはない。
彼らに出会ったのは昭和二十年春のことであった。
当時、石川県に住んでいた私は地元奥能登にある航空工場に勤めていた。
学友の多くが出兵し、自分も途中で学業を切り上げ
自分の番は今日か、明日かと待ちながら、
工場で旋盤を回していたのだが、とあることがきっかけで
中島工場の本社がある太田町に出向くことになった。
部品不足、燃料不足が恒常化し、なんとかやりくりして操業してところ
ある手法によって部品の耐久性が飛躍的に向上した。
まさにケガの功名ともいうべき発見である。
そのケガの功名は、もちろん私だけの功績ではないのだが、
主に私の手柄とされ、その発見の一部始終を説明するため
鈍行列車に乗り群馬県まで出かけた。
中島飛行機で私は無我夢中で自分が発見した技術を語った。
要領を得ない拙い説明であったろうが、
自分の熱意を買ってくれたのか、技術将校から労いの言葉をかけていただいた。
私は、部品を製作していた時のやるせなさや厭戦気分を忘れ
少しばかり国の役に立ったことを誇らしく思った。
今になって思えば、なんと思慮の足りない浅はかなことであっただろう。
(続く)