ブリキのおもちゃと握り飯

司馬遼太郎からの手紙 下 (朝日文庫)

8月8日、日ソ不可侵条約を破ってソ連が参戦。柴田さんらは南へ南へと退却した。
(中略)
ところがある日柴田さんは、日本の戦車隊に遭遇した。
司馬さんへの手紙には、その情景が詳しく書かれている。

・・・先生が戦車隊の将校と承っていますので書かせて戴きます。
対ソ戦闘時、8月14日午後と記憶しますが、
牡丹江東郊の掖河よりクタクタになって牡丹江市内へ歩く道路の左側に
2輌の97式戦車がとまっていました。
「やいやい、飯ぃ食って行かねえか」
と呼び止められました。
見るとまだ二十歳代の髭の曹長殿以下5,6人の戦車兵が
側の水溜まりの水を使い、戦車の間に炭火をおこして飯盒炊さんしながら
セッセとに握り飯を握っています。


地獄に仏とばかりに我々十数人は少々グリース臭くて舌が焼けそうなのを
立ったまま有り難く戴き、特別に梅干しの入ったものまで貰ってしまいました。
聞くとここは既に混戦状態で昼間はこの辺りで過ごし、
夜になると出ていって暴れまくるとの事
「敵さんには肉攻班が無いのでありますから。さっ、食うてつかさい。」
とは、私と同年配の兵長です。
もう弾薬と燃料も残り少なくなり、今夜あたりが最後と思うので
こうして通る兵隊達に残り米でサービスしているとのことです。
お礼にカツオの缶詰を少し置いて行こうと申しますと
「オレ達特科隊の方が給与がいいんだ、いらねぇいらねぇ」
と笑っていました。
言葉の調子では髭の曹長殿は北関東の出身ではなかったでしょうか。


何と彼らは皆若くてシッカリとしていることか。
たった二日の戦闘でクタクタになってしまった敗残兵同様の我々には
大きなショックであります。厚く礼を言った後、
銃を天秤に担いでいた者は正しく担え銃をし、
刀を帯革に差していたものはこれも正しく剣吊りに吊るし
西へ向かって行進をはじめたのであります。


私は、対戦車地雷と一緒に雑のうへ入れた暖かい握り飯を手で押さえながら
何故か、涙をポロポロとこぼしながら中隊本部を追尾すべく歩き続けました。
空には、爆撃機か輸送機か、双発後退翼機の敵機が幾つもの編隊で西に飛び
時には鼻先の長い戦闘機が高空を飛んでいました。
(中略)

そして握り飯を見る度、あの若かった戦車兵達をしのびます。
ブリキ車の様な弱装甲の旧式戦車の中で
彼らは一緒に死ぬことができたであろうかと。
たった2輌の関東軍戦車隊、
たった2輌でありました。

 司馬遼太郎への手紙11「残された2輌の戦車」 朝日新聞社


波津見的時事放談さんのとろこで97式戦車の話題を見つけたので
昔読んだ司馬さんの本に出ていたエピソードなどを。


傀儡国家と呼ばれた満州やその政府について賛否さまざまな意見があり、
関東軍満州で民間人を置き去りにして逃げた等の恨み言を時たま耳にする。
満州を守っていた関東軍は、その多くを南方戦線に引き抜かれて
歯が欠けた櫛のような状態であり、中立条約を破って
突如として侵入してきたソビエトの不意打ちを食い止める術はなかった。
勿論、それは、軍隊によって守られるべき国民からしてみれば、
言い訳に過ぎないことも、理解している。


だが、それでも関東軍は最終局面において、できうる限り最善を尽くしたと
私は信じている。
頭の足りない右翼と罵られようと、歴史修正主義者と蔑まれようと
私は満州で戦い亡くなられた方を悼む。