天空の舟

天空の舟〈上〉小説 伊尹伝


宮城谷昌光の「天空の舟」を読んだ時、漠然と感じたのは、
人は自分の力で生きているのではなく
天の佑け、地の力によって生かされているということである。
己の力を過信し、天に挑もうとした時、人も国も滅びる。
後者を体現したのが、夏の桀王であり
天の声、地の声を聞きながら、前者の道を進んだのが
殷(商)の祖となった湯王であり、宰相となった肇ではないだろうか。


湯王は、壮年になるまで血気にはやることころがあったが、
肇の言葉を重く用いたために、数年で徳を備えるようになる。
物語の後半、王となつた湯が、旱魃で苦しむ民を救うために悩み
「やりたいことをやった桀とやりたいことを半分もできず、
 旱魃に苦しむ私では、どちらかが幸せか。」
と問いかけるくだりがあるが、肇は、
「人民とともに苦しむことができることが幸せである。」
と湯に告げる場面があるのだが、まさに至言ではないだろうか。


人の苦しみを我が苦しみとできる心ーその境地までは、
我が徳は遠く及ばないのは自明だが、
そこまでの距離を縮めようと努力するところに
人としての生の意味があるのではないだろうか。
自分の天命もそこにあるのかも知れない。