戦争とカーンと140km

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メーメット・ショル(元バイエルン・ミュンヘン
「この世で怖いものは戦争とオリバー・カーン

欧州で戦争がリアルとなった本年、
シャレになっていないセリフだが、
オリバー・カーンのサッカーに対する姿勢を
これほどよく表現した言葉はないと思う。

昨日、11/29の産経新聞に別府育郎氏のコラムが掲載されていた。
記事は、先日なくなったプロ野球選手・村田兆治氏が手掛けた企画
離島甲子園について触れていた。
村田氏は生前地域的なハンディを抱える離島の野球を
盛り上げようと離島に所在する中学生の野球大会を
企画し、主催していた。
村田氏は大会に参加した球児から
甲子園出場者とプロ野球選手の誕生を夢見ていたとのことだった。
今春、選抜出場を果たした奄美大島大島高校の選手が
ドラフト会議で指名された。
奇しくも村田氏が死んだ本年に念願が
かなった悲しい事実も記されていた。

本年夏ごろにマスコミをにぎわせたこともあったが
それをもって彼の不器用にまっすぐ生き方の全てを
否定するのは間違っていると思う。

なお記事には、日韓サッカーワールドカップで活躍した
ゴリラにも似た強面のGKオリバー・カーン
参加したチャリティーの顛末にも触れており、
その内容に笑ってしまった。

サッカーの日本代表はW杯初戦で、優勝4度のドイツを相手に逆転勝利を収めた。ゼップ・マイヤーオリバー・カーンといった名守護神の系譜を継ぐ当代一のGK、マヌエル・ノイアーから奪った2得点は世界を驚かせた。

そのカーンには、こんな伝説がある。チャリティーイベントに呼ばれ、子供相手のPK戦で全てのシュートを止めてしまった。泣く子供らを前に彼は「相手が誰であれ私のゴールは許さない」と言い放ったらしい。

同僚が以前、離島で野球教室を開く村田に同行した。50歳を過ぎても140キロの速球で子供らに1球もかすらせず「本物を知ってもらうため」と話したのだという。

いずれも、プロの矜持(きょうじ)の武骨(ぶこつ)な発露といえた。

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戦う男でありたい

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12月15日(水)『ファイト』

個人的に日本の詩人の中で最も尊敬してるのは中島みゆきさんですが、彼女の歌に

「戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう、ファイトッ」

という一節があり、これほどの美しく残酷に人間の本質を突いた日本語は他に無いだろうと常に思ってます。
人は安全で安定した場所から出て行く人間を、現在を変えて新しい世界を目指す人間を、自らの平安を破るものとして嘲笑し侮蔑します。怖いからです。羨ましいからです。
そして挑戦者の成功に対し、称賛よりも嫉妬、さらに中傷が続き、結局、苦労して得るものは自己満足と言うのが人間社会の特徴の一つです。
例外的にアメリカはこの傾向が僅かに、ほんの僅かに、他の文化圏より薄く、このほんの僅かな差があの国を世界最強の座に付けていると私は思ってます。

そして、どんなに苦労しても得られるのは自己満足だけなのに、全てを敵に回してまで一人で戦い続けたのが本田宗一郎総司令官だったと私は思っています。
人のマネを嫌い、楽な道でも嫌い、あくまで己の道を突き進んだ人でした。当然、その歩んだ道は間違いと失敗だらけなのですが、僅かないくつかの成功が桁違いに眩しいものでした。
その本田宗一郎率いるホンダが、誰に頼まれたわけでも無く何の必要も無かったのに、俺たちが世界一のクルマ屋なのだ、と証明するためだけに1964年からF-1に参戦します。
当然、死闘と言っていい戦いになりました。

(中略)

2020年はコロナ騒動もあって予想外の苦戦となりましたが、それでも確実に結果を出しつつありました。
その中で、突然、ホンダの社長がF-1からの撤退を宣言します。会社は利益を出すための集団であり、その決断は致し方ないところですが、その宣言文の内容が完膚なきまでに負け犬の泣き言で、こっちが泣きたくなりました。
ホンダはやはり死んでいました。もうダメでしょう。上が最悪の負け犬根性で現場は戦えるのかと悲しくなりました。

だが戦ったのです。そして勝ったのです。
コンストラクターチャンピオンは逃しましたが、本田宗一郎総司令官が地球上から消えてから初めて、ホンダはドライバーズチャンピオンを獲りました。
組織のトップが戦う誰かを笑う人間なのに、それでも戦い、勝ちました。ファイト。
個人的に調べた範囲内に置いてですが、人類がオギャーと生まれてから、トップが腐った組織が勝った例を一つも知りませぬ。そんなものは無いと思っていました。
間違っていました。戦うあなた達は勝ったのです。ファイト。本当に素晴らしいものを見せていただきました。心よりお礼を申し上げます。

そしてその美しい戦いは、モータースポーツ史上まれに見る激戦として記録される事になりました。メルセデスのハミルトンとレッドブルホンダのフェルスタッペンの死闘は十年を超えて百年残る戦いでした。
それに相応しいホンダの現場の皆さんの戦いだったと思います。ファイト。私は死ぬまで戦う人を笑わない奴でいたいと思います。ありがとうございました。


直木賞ウィナーにして下妻南星高校の大先輩・海老沢泰久氏の
ホンダFI挑戦の第一期と第二期の奮闘を描いた「FI 地上の夢」の帯には
"ホンダには夢に取りつかれた男たちが集まっていた"と書かれていたと記憶している。

昨年F1王者に返り咲いたことに最大限の賛辞を惜しまない夕撃旅団氏は
ホンダの社員ではないがだれよりもホンダの夢に
取りつかれた人物ではないかと思う。

彼の文章に触発れされて何年かぶりにファイトを聴いた。
ただ一つ思うことは
戦う人間でありたい、ということである。

ジャイアントキリング

ワールドカップの11月開催の影響で
10月の決勝となったサッカー天皇杯
季節外れの感覚が否めない大会は
J2所属のヴァンフォーレ甲府
クラブ初のタイトルを獲得して幕を閉じた。
自分の贔屓にしている鹿島を倒しての優勝に
切歯扼腕するものだが
対J1クラブ5連勝を達成しての頂点奪取、
延長終了間際の相手PKのストップ、
延長戦でも勝ち越しを許さず
チーム最年長の山本が決めた優勝と
語る種の尽きないヴァンフォーレ
素直におめでとうとの賛辞を贈りたい。

J2発足から始まったプロクラブとしての歴史は
お世辞にも輝かしいとは言えなかった。
人気低迷、資金不足の弱小チームで
2000年代前半に消滅していても
不思議ではなかった。
クラブ存亡の時
窮余の一策として親会社が送りこんだ人物が
ケミストリーを起こさなければ
ヴァンフォーレの名はフリューゲルスのように
コアなファンの間でのみ語り継がれる存在に
なっていただろう。

選手引退後に指導者として
歩み始めた吉田達磨の来歴も
順風満帆とは言えない。
柏のユースで成果を出して満を持しての
トップチームのヘッドコーチ就任後
チームの低迷に苦しみ解任、
その後、若手育成等の実績を買われて
アルビレックスヴァンフォーレ
続いて指揮をとるものの
成績が残せず連続して解任されている。
今年からのヴァンフォーレ
執る2度目の指揮でも黒星が先行し
リーグ戦では苦戦が続いている。
理想とするサッカーと現実とのギャップに
もがき苦しむ最中での大金星は
サッカーの難しさと面白さを
象徴しているように感じる。



勝つサッカーが正しいのかー
正しいサッカーだから勝てるのかー
その答えをめぐり、サッカーは続く。

24時間戦えますか

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「なにかあったらどうするんだ症候群」に罹った社会では未来は予測できることを前提としているために、何か起きた時にはどうしてきちんと予測しておかなかったのかと批判されることになります。だから何が起きるかを事前に予測して対処しなければなりません。この症候群に罹った人は、暗黙の前提として物事を未来からの逆算で考えています。

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労働賃金が韓国よりも安くなったという
記事をみかけた。
最近の円安の影響かと思いきや
記事の日付は1年前ー、
円の値段に関わらず
日本が韓国の下にあったという事実に
少なくない衝撃を受けた。
どうして日本はここまで落ちぶれたのか?


落ちぶれる前の日本には
当然のことながら活力があった。
その活力の源となっていたのは、
世界でナンバーワンを競っていた企業であった。

近頃、趣味の延長でホンダやソニー
シャープやビジコンの歴史を調べたが
戦後の日本において、一時代を築いた企業には
面白い共通点が存在した。
それは官僚の指導に逆らって、
製品開発を貫き、その至らなさを
白日に晒したという経験を有することである。

半導体に挑戦した東京通信時代のソニーを嘲り、
四輪車を生産するホンダに二輪だけ作れと規制をかけ
コンピューター(計算機)開発に乗り出したシャープを侮り
世界最初のマイクロプロセッサを作ったビジコンに
無駄な外貨を持ち出すくらいなら
潰れても構わないと傲慢な態度で邪魔をしたのは
日本のベスト&ブライトである官製大学出身の官僚らであった。
しかし、官吏らの妨害乃至非協力をのり越えて
各々の会社は成功をつかみ、
日本を明るく、面白くする。

つまり、賢しい頭で計算した官僚の作文を
頭数にも入っていなかった企業家たちが
思惑ごとひっくり返したから、
昭和の終わりから平成の初めにかけて
日本は輝いていたと個人的に感じる。

決して、政治が良かったから、
官僚が優秀だったから
日本が強かったわけではない。
平和という幸運にも恵まれたが
失敗をものともしない挑戦者達がいたから
日本は繁栄したのである。

挑戦者の後継たちは何に挑んのだろうか?
前任者の成功を誉めちぎり
それを踏襲することで
よしとしてこなかっただろうか。
失敗を恐れる官僚のように
ふるまってこなかっただろうか。

失敗を恐れることは必ずしも悪いことではないが
失敗を恐れて、何もしないことは悪である。
失敗しても、立ち上がればいい、
たったそれだけのことができない国に
何故なってしまったのだろう。

何かあったらどうするー
そこに日本の凋落を招いた病根が
潜んでいるように思えてならない。

永田町を始め、賢しい人間が多すぎて
なにやら社会全体が
お節介お母さん化してしまったような
動きにくさを感じる。

ソウちゃんとタケちゃんの夢7

 レースの後、夕闇がアデレードを包むころ、市内の日本料理店で、会社スタッフによる宴が開かれた。創業者のオヤジを迎えて、四輪世界最高峰のレースでチャンピオンとなったことを祝うことを前提として事前に予約がされていたものだった。
 
 レース序盤でネルソンはスピンしていたが、その後はミスを補ってあまりあるパフォーマンスだった。ネルソンは、最後までチャンピンにふさわしい走りをみせた。ネルソンはファステスト・ラップを重ねてアランに迫ったが、アランは動じることなく勝負に徹して82周を走りきった。アランもまたチャンピオンにふさわしかった。アランはネルソンよりわずか先にゴールに達した。ネルソンがゴールに到達したのはアランの4秒後だった。なぜ勝てなかったのか? エンジンの出力も燃費もポルシェよりも会社のエンジンの方が上だった。チャンピオンとなるために何が足りなかったのか―?、油断があったのか、ヨシは自問を続けながら席に着いた。

 宴会の会場は、畳が敷き詰められた日本風の部屋だった。異国での生活が続き、やっと帰国できるー畳の匂いに押さえ込んでいた故国への慕情があふれだしそうになった。ヨシの心を祖国へのなつかしさがしめた。だが、それはわずかな時間だけで、再び勝負に勝てなかった口惜しさが首をもたげた。

 ヨシがやるせなさと格闘しているうちに、オヤジが娘夫婦ともに会場にやってきた。全員が盛大な拍手で迎えた。現場から引退していたオヤジとともに勝利の美酒を味わうことをヨシは望み、それを叶えることができなかった無念がヨシの心を重くした。「せっかく、日本から来ていたオヤジさんに申し訳ないことをした」ヨシはオヤジに土下座してあやまりたかった。最終戦で勝利を逃がした会社のスタッフも、似たような気持ちだった。レースの結果にがっかりしながらも、ヨシを励まそうとしたアニキの言葉がよぎった。来年こそは―、ヨシは固く心に誓った。

 乾杯の音頭をとってもらうために若いスタッフがやや緊張しながらオヤジに申し出た。宴会に参加していたのは若いスタッフばかりで、オヤジと一緒に仕事をした人間はほとんどいなかった。最年長のヨシですらオヤジから怒声を浴びせられたのは1、2年に過ぎなかった。それでもスタッフ全員がオヤジの激しさを伴った情熱を知っていて、直接の薫陶はなくてもそれを受け注いでいる自負があった。

 オヤジは機嫌よさそうに頷いて、ビールが注がれたコップをもって畳より一段ばかり高くなっていたステージの上に進みでた。そこでヨシたちは信じがたい光景に遭遇した。オヤジはステージの赤いカーペットの上に正座して、コップを脇において手を床につけて深々と頭を下げた。宴会場にどよめきが起きた。満面の笑みを浮かべながら矍鑠としたオヤジの言葉が胸に響いた。ヨシは思わず嗚咽を漏らした。まわりのスタッフも衝撃を受けて、目に涙を浮かべた。

「世界一になるという私達の夢をかなえてくれてありがとう」

ソウちゃんとタケちゃんの夢6

「ナイジェルの燃料は大丈夫か?」ヨシはピットクルーに尋ねた。
「はい、このペースであれば5リッター以上残ります」

 昭和61年11月オーストラリア、アデレード。この年は、最高峰レースのチャンピオンシップは混戦となり、ドライバーズ部門は最終戦まで決定が持ち越されていた。最終レースが始まる時点でランキングトップは5勝のナイジェルだった。最終戦を3位以上でフィニッシュすればチャンピオンが確定する。ランキング2位のアランと3位のネルソンにも逆転でチャンピオンになる可能性はあったが、それはレースに勝利してかつナイジェルが4位以下でゴールというのが条件がついた。1位のナイジェルと3位のネルソンが会社のエンジン・ユーザーだった。

 前年途中、ヨシ達が設計した新エンジンのテストはことの他上手くいった。テストの結果に希望を見出したパートナーのフランクから新エンジンの投入を催促されるに至り「オレのエンジンを下ろすからには絶対に勝て」とノブのアニキは引き攣った顔でヨシに厳命した。意地やメンツよりも結果で語るーそれが会社の生き様ーそう理解したヨシは、全精力をレースに傾けた。結果、シーズン4勝を勝ち取った。前々年まで合計で3勝だった会社の総勝利数を上廻る好成績にノブのアニキは「オレのエンジンを引きずりおろしたからには、これぐらいの成績は当然だろう」と腹の中で葛藤している嬉しさと悔しさを隠しきれずに言った。このエンジンでチャンピオンを狙えるーヨシは前年末、その手応えを掴んでいた。

 最高峰クラスのレース復帰して5年目、フランクのチームのエンジンを提供して4年目になるこの年、ネルソンとナイジェルの二人で15戦のうち9つのレースで勝利をおさめ会社は初のコンストラクターズ部門のチャンピオンを獲得し、オヤジがめざした世界一を一つ達成していた。ただし、最高峰のレースにおいてチャンピオンというのは、コンストラクターズ部門ではなく、ドライバーズ部門の勝者というのが相場であった。そのドライバーズ部門の最高位も、あと30周たらずで手に入る―現場にいた社員は誰もがそう考えていた。サーキットで車の整備を行うピットクルーの半分は会社からの派遣組が占めており、ピットは初めての世界制覇を期待する雰囲気で満ちていた。82周で競うレースの55周が終わったとき、ナイジェルは4位を走行していた。

 ターボ・エンジンで競われていたこの年のレギュレーションの最大の特徴は、レース開始後の燃料の給油が禁止されていたことだった。つまり参加するマシンはスタート時に搭載している195リットルのみの燃料で速さを競うことになっていた。燃料がなくなったマシンはその時点でレースが終了となった。レース序盤から中盤にかけて極力燃料の消費を抑えて走り、”貯金”ができた時点でスパートをかけるのが定石の一つとなっていた。レース中盤ナイジェルの順位が4位に落ち着いていた時、レースをリードとしたのはケケだった。ケケは昭和57年のチャンピオンで昨年まではフランクのチームで走っていた。昭和59年会社に17年ぶりの勝利をもたらした立役者でもあった。ケケが現役最後を公言していたこの年、彼はポルシェ・エンジンのロンのチームを選び、昨年のチャンピオン・ドライバー、アランのチームメートとなっていた。ケケがチームを移籍した理由についてヨシは正確なところを知らなかった。契約金だったのか、フランクとの関係がこじれたのか、それともフランクのチームよりポルシェを載せるロンのチームの方が勝ち目が多いと踏んだのか―。正確な理由は本人のみぞしるだが、ともかく今年のケケは、倒すべきライバルとなっていた。

 ケケは、フィンランド人らしく勇敢なドライバーで、市街地を得意としていた。一般の道路を封鎖してコースとして利用する市街地レースは、ガードレールでコーナーの出口が隠れることが多いため、レース専用のクローズド・サーキットにはない恐怖心がドライバーを襲う。歩行者や対向車がいないと頭ではわかっていても、出口の見えないコーナーは死への恐怖が首をもたげるのだ。一秒に満たないほんのわずかの逡巡がドライバーにアクセルをためらわせ、勝負のアヤとなることもしばしばあり、ケケはそのアヤをつかむのが上手かった。前年のアデレードは、フランクのマシンと会社のエンジンとケケの組合せが勝利をおさめていた。

 アデレードの市街地コースのレースを先頭で走るケケをヨシはオーバーペースと判断した。敵のチームの燃料消費状況について正確なところはわかないが、彼は1年間戦ってきた相手の性能をほぼ理解していた。「燃料が持つわけがない。アランにチャンビオンを取らせるためにレースの展開をひっかきまそうとしている」とヨシは読んだ。ヨシはエンジンの責任者であった。レース全体の指揮はチーム・オーナーのフランクがとるものの、エンジンや燃費の計算、タイヤ交換についてはヨシがハンドリングしていた。マシンに取り付けたテレメーターは会社のもので、そのデータを読み解いて判断することはヨシにしかできなかったからだ。
「ケケは無視して大丈夫だ。ナイジェルの燃料をチェックしておけ」ヨシは、チームクルーに指示を出した。クルーからナイジェルにペースをキープしろとのオーダーが出された。ヨシは残り3周前後でケケの退場を予想していたが、それよりもずっと早い62周目にケケの最終レースが終了した。残りあと20周となった62周目、ケケの車がストレートを走行中、後輪のタイヤがバーストした。この日好天に恵まれたアデレードは気温が高かった。そしてタイヤの耐久性に大きな影響を与える路面温度も高くなっていた。タイヤのサプライヤーからは、タイヤ交換なしで82周の完走は可能という判断が示されていたが、ケケの荒い走りはサプライヤーの予想以上にタイヤを酷使していたのだ。

 ケケの退場でネルソンがトップとなり、ナイジェルは3位に繰り上がった。ナイジェルがチャンピオンの座をほぼ手中にしたとサーキットの誰もが思った。
「ケケのタイヤがいっちゃいましたね」
「ああ、彼はタイトなコースは速いけど、タイヤのグリップをフルに使うからな」と口を開いたスタッフにヨシは答えた。しばらくして「まあ、ナイジェルも似たようなタイプだな」と続けた。
「タイヤ交換させますか?」スタッフが尋ねた。
「そうだな、4位との差どれくらいだ」ー「40秒以上あります」
ピットでタイヤ交換すると一周のラップは約30秒ほど遅くなる。約10秒間のタイヤ交換の作業時間に加えて、作業場所であるピットに入るための減速とコースに復帰するまでに加速する時間を必要とするからだ。
「よし、ナイジェルにピットインの指示を出せ」ヨシは、クルーに指示した。しかし、サインボードを確認したナイジェルがその指示を実行することはなかった。

 63周目、時速200キロメートル以上のスピードでストレートを走っていたナイジェルのマシンにアクシデントが訪れた。突然、轟音とともに後輪が破裂し、数秒前までタイヤを構成していた黒いゴムは回転しながら1、2秒のうちに四散した。それをとどめる手段を思いつく間もなく、後輪のホイールがむき出しとなり、アスファルトを削り火花を散らした。モニターを見つめていたヨシは、タイヤを失いながらコース外で停止したナイジェルのマシンを見て頭の中が真っ白になった。ケケのリプレイであってくれ、自分の見間違いであってくれと祈った。しかし、サーキットはケケの時以上の悲鳴に包まれていた。レースの実況を放送していたスピーカーはカーナンバー6番とともにナイジェルの名前を何度も絶叫した。
 
「落ち着け」ヨシは自分に言い聞かせて平静さと思考を取り戻そうとした。ナイジェルがリタイヤしても、まだネルソンが走っている。ケケがリタイヤしたあとはネルソンがトップを走っていた。このままレースが終わればネルソンが逆転でチャンピオンだ。「ネルソンとアランの差は?」10秒です」間髪を入れないスタッフの答えに満足しながら、ネルソンが逃げ切れるとヨシは計算した。

 しかし、タイヤのサプライヤーから緊急の指示が全チームに入った。
”安全のためタイヤ交換を強く奨励する“ー「チッ」ヨシは舌を打った。タイム差からしてネルソンがタイヤ交換すると先頭をアランに渡さなければならなくなる。アランはレース序盤のトラブルでタイヤ交換をすでに実施していた。つまり、サプライヤーの指示はアランには適用されない。ネルソンを無理して走らせるか?しかし、ナイジェルのようにタイヤを破裂させてしまえば、全てが終わる。チャンピオンを獲得にはアランのトラブルを期待することになるが、ドライバーの安全には変えられない。クルーはネルソンがピット前を通過するまでにサインを決める必要があった。交換が遅くなればなるほど挽回できる周回が少なくなり、状況は厳しくなる。10秒足らずの時間でヨシは決断した。

 ネルソンにタイヤ交換の指示が出た。

ソウちゃんとタケちゃんの夢5

「ヨシさん、どうします?」会議に陪席していた後輩のスタッフが尋ねた。
「アニキの気の変わるのを待っていたら、シーズンが終わる。とりあえず設計を進めて試作品を作っておこう。テストや実車への搭載は作りながら考えよう」
「そんなことしていいんですか」後輩は驚いたような面持ちで再び尋ねた。
「俺はアニキに、チームを勝たせろ、と言われた」「はあ」後輩は納得していない返事をヨシに返した。
「アニキのエンジンは20年前のものだ。20年前だったらいざ知らずそんなエンジンを使っていたら、勝てるものも勝てない。アニキの機嫌をうかがってレースに負け続けるのと、新しいエンジンで勝つの、どっちがいい」
「そりゃ勝つ方がいいに決まってます」
「だったら、やることは一つ、勝てるエンジンをつくることだけだ」

 レースに復帰して3年目、アニキから責任者を命じられたヨシはシーズン3勝を役員と約束して予算の増額を認めさせていた。レース責任者とはいえ三十代半ば過ぎの係長クラスが要求したところで簡単に認められる類の金額ではなかったのだが、本社の副社長に昇進が内定していたアニキがレース活動を仕切っている事情が考慮されたことで、ヨシは活動資金を確保することができた。
 そして、ヨシを始めとする若手はエンジンの設計を着々と進めた。アニキのノブは、自身の設計が若手に否定されたことで激しい憤りを覚えたが、それだけだった。結果がすべて―15年前引退したオヤジはそういっていた。


 昭和40年代後半、会社はオヤジの主張と若手の主張が真っ向から対立し、会社の歯車がかみ合わなくなっていた。当時若手エンジニアだったノブたちは、単純な設計に基づくユーザー視点のエンジンを至上のものとするオヤジの考え方が限界に来ていたことを感じていた。このままでは会社が持たない―ノブのアニキたちはこの件をオジキのところに持ち込んだ。オヤジが技術で、オジキが経営・販売を所掌し、それぞれはお互いのシノギに口を出さないという二人の不文律は、社員ならば誰でも知っていたが、あえてそれを破った。八方塞がりとなったアニキ達はルールを守っても会社を守れなければ意味がないと判断した。

 新しい考え方でエンジンを作らなければ早々に会社がつぶれる未来図が見えるアニキ達は必死になって、オジキに訴えた。オジキはアニキたちの話を一通り黙ってきいた後「君たちの言いたいことは分かった。そのまま社長にいいなさい」と回答して翌々日にオヤジと若手エンジニアのミーティングの場をセットアップした。
ノブのアニキたちは狐に包まれたような気分になった。研究所でいくら説明しても理解を示さなかったオヤジが、ミーティングくらいで考えを変えるとは思えなかった。

 しかし、ミーティング当日、オヤジは一方的に怒り狂ってしゃべった後、「そんなに新しいエンジンやりたきゃ、やればいいだろう。ただし、失敗したら給料はないと思え」と机をたたいて退室した。会社消失の危機を回避しようとしたノブたちの要求は何も言うこともなく、あっさりとみとめられた。

 実は、アニキたちがオジキに直訴した後、オジキはオヤジとなじみの店で杯を酌み交わしていた。その席でオジキはオヤジに「ソウちゃん、この会社はアンタの技術者としての意地があったからここまで大きくなった。今、二輪車の売り上げはまずまずだが、四輪車が伸び悩んでいる。あたしには技術のことは分からん。ただ、四輪車のコストがかかり過ぎるているのは黙認できない、何でだ?」とオヤジに説明を求めた。

 オジキの口ぶりからノブのアニキ達がオジキに泣きついたことを察したオヤジは「タケちゃん、オレのエンジンでもまだやれるんだよ、説明したところで理解できるかどうかわからないけど、まだやれるんだ」とオジキの口撃に予防線を張った。オジキは、一息ついて徳利を差し出し、オヤジの猪口に酒を注いで口を開いた。
「あんたはあたしに経営を任せた。そしてあたしはアンタの領分である技術には口を挟むことなくこれまでやってきた。あたしはアンタの器に合わせて会社を大きくしたつもりだし、これからもそのやり方で大きくしていくつもりだ。」オヤジは黙って聞いていた。「アンタのその技術者としての意地は、アンタが社長を務めるこの会社をつぶしても守らなきゃならない大事なものかもしれない」口調こそ柔らかだが、有無を言わせないオジキの迫力にオヤジは詰った。
「だから、一つ聞かせてくれ、アンタは社長なのか、技術者なのか」オジキは覚悟をもってオヤジに即断をせまった。言葉の調子からオジキの心中を理解したオヤジは長い間沈黙ののち、ようやく言葉を一つ絞り出した。「技術者のプライドも大事だが、会社はもっと大事だ」

 オヤジが曲げなかった意地を曲げた瞬間だった。オヤジの心うちを読み取ったオジキは安堵した。「それじゃ、ノブたちに新しいエンジンを作らせますね」とオジキは確認をとった。「ああ」と返答したオヤジは「年を食ったな、俺も」と平手で自分のパチっと叩いてオジキにだけみせる素の弱い顔をあらわにした。オヤジの言葉に応じるようにオジキも「あたしもだ」と答えた。二人は顔を見合わせて、カッカッと笑った。

 オヤジが技術者としての限界を認めた3年後、オヤジは会社から身をひいた。技術開発、研究所の人材育成を含めた計画やらノウハウの一切合財を後任に指名したキヨシのカシラとタダシの大アニキに丸投げした。突然、二代目に指名されたキヨシのカシラは技術以外の仕事は俺のシノギじゃねぇ、と一週間ばかり出社拒否して駄々をこねたが、その駄々をあやすことがオヤジの最後の仕事となった。キヨシのカシラに丸投げされたもののなかに一つの心得のようなものがあった。社訓めいたものが少ない会社だが「日本を強くするために先人の技術を乗り越えろ」という生き方が伝承された。

 技術開発を行う研究所では技術者のあいだで「その技術は会社の利益になるか、日本の未来を明るくできるか?」の問答と議論が繰り返されることが常だった。勿論、そうした研究所のハリある空気はオヤジの情熱を引き継いだものだが、その研究所を作りあげた最大の功労者はオジキだった。研究所を社内独立させることで経営よりも技術を優先する会社の姿勢を明確にして、世界に通用する技術こそが存在意義であることを内外に示した。研究所が開発した製品を本社が買い取って生産するという他社に例をみない会社独自のシステムは、反対意見をねじ伏せたオジキの剛腕と技術絶対の信念があったからこそなしえた代物だった。そのオジキもオヤジと一緒に引退した。いつまでもジジィがいたら、若い衆が一人前に育たねぇんだよ、というのが理由だった。やはりオジキも仕事を後任に丸投げしたが、オジキの跡継ぎは駄々をこねることはなかったそうだ。オヤジとオジキは会社からいなくなって、社内はお通夜みたい静かになったが、その静かさを乗り越えて会社を成長させることが二代目らの初仕事にして最大の仕事となった。